将棋の館−盤上のドラマ−栄冠は光の彼方に!−燃えろ谷川!−/早すぎた頂点

早すぎた頂点


    谷川が名人戦に登場する前年、第40期名人戦七番勝負(昭和57年)では、名人の中原と挑戦者の加藤が、
  将棋史上に残る死闘を演じていた。
  
    史上二人目の五冠王に輝くなど、全盛を極めた中原だが、昭和50年以降は米長・加藤の台頭が目覚しく、”3強”
  と呼ばれていた。
    加藤は2年前、十段戦で中原からタイトルを奪取しており、中原にとってかなりの危機感を持って臨んだ名人戦
  だったと思う。
  
    3勝3敗1持将棋2千日手・・・十番勝負となった第8局は、終始中原が優勢。
  しかし強気の指し手が災いし、自陣に即詰みが発生。加藤、残り時間を全て投入し、詰みを発見した。
    この時、”ヒエー”と加藤が奇声を発したと言われている。

  しかし、名人奪取後の加藤は燃え尽きたのか、まるで抜け殻のようになってしまった。その年の秋、中原の挑戦
  を受けた十段戦は防衛失敗。
   若手棋士に敗れる姿も目立ち、不調をうわさされた。
    ”今度の名人戦は、誰が挑戦者になっても防衛は難しいだろう。ただ一人、谷川をのぞいては。”
    これが名人戦開幕前のある高段者の予想だった。

    しかし、いざ始まってみると谷川がいきなり3連勝!名人位にあと1勝と迫った。加藤名人の不調は、目を覆い
  たくなるほどだった。
    ”史上最年少名人”誕生の瞬間をとらえようと、マスコミの追いかけがはじまった。
    が、さすがの谷川も硬くなったか、そしてようやく加藤にもエンジンがかかりはじめ、第4・5局は加藤の勝ち。

    そして第6局は形勢が二転三転するシーソーゲーム。勝ち筋を発見した谷川は、口元に白いハンカチをあて、あた
  かも嘔吐をこらえるかの如く、苦しげな表情をしていたとか・・・
    いつもなら瞬時にわかる9手詰めが、なかなか発見できない。75の桝目に打った銀が、ナナメになっていた。
    −指先が震えていたのだろうか・・・
    
    ついに史上最年少名人誕生!
    ”名人位を1年間預からせていただきます。”
    実力よりも地位が先行したことに対する、谷川の謙虚な言葉で、彼を語るうえではずすことのできない台詞だと
  思う。
    
    また、このときのフィーバーぶりは、当時、将棋界始まって以来といわれた。
    (テレビ局の注文にこたえ、和服を着て砂浜を走るシーンも、将棋界のためならと、OKした。)
    
    だが、最年少名人誕生に一番大きな衝撃を受けたのは、ほかならぬ他のプロ棋士達ではなかったか。
    ”何故、俺ではなく彼なのか”
    ”名人位が身近になった。当然ネライにいく。”
    さまざまな思いがあっただろうが、共通しているのは口にはださねど”まだお前のことは認めない”ということ
  だと思う。
    名人位を獲得した瞬間、それは谷川がとてつもなく重い十字架を背負った瞬間だったのだ。

    翌年、一門の叔父弟子にあたる森安の挑戦を退け、名人位初防衛。
    ”昨年は歴代の名人の中で、一番弱い名人でしたが、これで並みの名人になれました。今後は、強い名人を
    目指します。”
    記者会見で、谷川は明るく語った。
    
    だが・・・栄光の舞台の裏で、ひそかに忍び寄る試練の影。
    翌年の挑戦者は実力者中原王将。名人位を失って以来雌伏2年。まさに満を持しての登場であった。
  
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若獅子の頃

試練の時