将棋の館−盤上のドラマ−栄冠は光の彼方に!−燃えろ谷川!−/若獅子の頃

若獅子の頃


    昔、神戸に幼い兄弟がいた。兄弟ゲンカが絶えず、父親は頭を悩ませていた。
  ”将棋でも覚えれば、ケンカをしなくなるだろうか・・・”
  この時の父親の考えが、幼い兄弟−特に弟の−の運命を決めた。

  将棋盤と駒を買ってきたのはいいが、実は父親は将棋のルールを知らなかった。
   その日からしばらく、百科事典をみながら父親は子供たちに将棋を教えていた。
    しかし、父親の目論見はちょっとはずれた。
    兄弟のケンカは相変わらずだった。
    特に弟は負けると悔しがり、泣きながら駒に噛みついた。
    
   その男の子の名は”谷川浩司”といった。

  昭和51年12月、谷川は8連勝の成績で四段昇段を決めた。(当時は三段リーグはなく、”よいところどり”
  で昇段できた。)
    この時、谷川は14歳。中学生棋士は、加藤一二三以来実に20年ぶりの快挙。(のち、羽生善治・
  渡邊明登場)
  奨励会を3年9ヶ月で卒業した。

    翌年4月、昇降級リーグ4組(現C級2組順位戦)参加。
  果たして谷川は1期で抜けられるのか−大いに注目を集めた。

    緒戦から6連勝!
    素晴らしいスタートを切ったが、プロの壁は厚かった。第7戦、実力者土佐に初黒星。続く第8戦、
  のちに火花を散らして対決することとなる田中寅彦のイビアナの前に連敗。
    結局8勝2敗の好成績ながら、順位の差で昇級はならなかった。

    翌昭和53年。2期目の順位戦。
    快調に7連勝!今期は順位も3位。残る3局で1勝をあげれば念願の昇級。これは決まった、と誰もが
  思った。
    しかし、第8戦、沼に終盤のポカで敗れると、続く第9戦は飯野に完敗。にわかに怪しくなってきた。

    今の谷川なら幾多の大勝負を経験しており、こんなときも容易に開き直ったり、独特の勝負術を身につけている
  ことと思う。
    しかし、まだデビュー2年にも滿たぬ16歳の谷川少年には、計り知れぬほどの重圧だったに違いない。
    思うに前年の悪夢が、頭にこびりついてはなれなかったのだろう、最終戦の対関屋戦は中盤でアッという間に敗勢
  になってしまった。
  
    僕は運命論者ではない。しかし、この一戦のこの後の経緯は、まるで将棋の神様が谷川に勝たせようとしたかの
  ようにすら思える。
    相手がミスを続け、大逆転。谷川は8勝2敗となり、辛くも2期目で昇級を果たした。

    さて・・・谷川ファンの皆さんなら、彼の幾多の名勝負・好勝負を見てきたことと思う。では、彼の棋士人生の中で
  もっとも重要だった一戦は?
    僕は思う。この一戦、53年度の4組最終戦こそ今までの彼にとって、もっとも重要な一戦だったと。
    現実にも、もしここで負けていたら21歳名人はありえなかった。
    今とは違う”棋士・谷川浩司”になっていたと思う。
  
    そして何よりもこの一番は彼の成長の大きな糧になったようだ。
    54年度  昇降級リーグ3組  9勝1敗     昇級
    55年度  昇降級リーグ2組  10戦全勝! 昇級
    56年度  昇降級リーグ1組  10勝2敗   昇級

    毎年昇級を果たし、初参加の名人挑戦者決定リーグでも7勝2敗でプレーオフに進出。
    前年の名人であり、リターンマッチを深く心に期したであろう中原十段を降し、ついに名人戦の挑戦者に!
    時の名人は前年、中原と将棋史上に残る死闘を演じた末、苦節22年で頂点に立った加藤一二三。
    
    若武者、颯爽と桧舞台に立つ。
  
  ※谷川さんの昭和51年度−63年度の成績はここ

※中原vs谷川のプレーオフの模様はここ

※プロになるには”奨励会”というプロ棋士の養成機関に入門する。そこで規定の成績を上げ、段・級を

あげていき、”四段”になったものが”プロ棋士”と認められる。三段から四段になるには、現在は

”三段リーグ”というリーグ戦で上位2名にならなければならない。(年2回)

しかしこの頃は”三段リーグ”は存在せず、規定の成績をあげれば四段になれた。

早すぎた頂点